鎌倉時代の戸隠は、高野山、比叡山に匹敵する一大霊場に数えられ、宿坊の数も多く「戸隠三千坊」と言われたそうです。室町時代には戸隠信仰は善光寺信仰とセットになり多くの僧が戸隠、善光寺両方に参詣したそうです。
− 戸隠神社信仰遺跡 −
『 戸隠神社は奥社・中社・宝光社の三社からなっている。平安時代から修験道が行われ、日本有数の霊地として知られていた。
縁起によると学問行者が修験を始めた年代を嘉祥二年(八四九)頃としていて、これが戸隠寺(奥院)の起源となったという。その後二○○余年を経て康平元年(一○五八)に宝光院が、さらに寛治元年(一○八七)に中院が開かれたという。明治の初めの、神仏分離により、寺を廃し、奥院・中院・宝光院をそれぞれ奥社・中社・宝光院と名称を改めた。
中世には、戸隠山は、武田、上杉の争乱に巻き込まれ、甲越両軍の戦略によって絶えず危難に脅かされたので、三院の衆徒らは、一時、大日方氏の領内水内郡小川の筏が峰(現小川村)に移り、約三○年の歳月をここで送った後に戸隠山に帰った。
修験の山の旧態がなおよく保存されている奥社・中社・宝光社及び筏が峰三院跡(奥院跡・中院跡・宝光院跡)が史跡指定となっている。
なお、奥社・中社付近の考古学調査は、昭和三八年(一九六三)からの昭和四十年(一九六五)にかけての戸隠総合学術調査の一環として行われ、講堂跡をはじめ数々の遺構などが明らかにされている。』
先代旧事本紀によると、天表春命は饒速日命が天磐船に乗って天降ったとき護衛として随従した32柱の神の中の1柱で長野の阿智氏等の先祖とされ、弟の天下春命は武蔵秩父国造等の先祖とされるそうです。また、表春(うわばる)とは伝説上の蛇「うわばみ」のことだという説も。
戸隠神社/所在地:長野県長野市戸隠