− 諏訪大社上社前宮神殿跡 −
『ここは、諏訪大社の始祖と伝えられる有員(ありかず)がはじめて大祝の職位について以来、同社大祝代々の居館であったところで、神殿(ごうどの)は神体と同視された大祝常住の殿舎の尊称である。
この神殿のあった地域を神原(ごうばら)と言い、代々の大祝職位式および旧3月酉日の大御立座神事(酉の祭=御頭祭)をはじめ、上社の重要な神事のほとんどが、この神原で行われた。境内には内御玉殿・十間廊・御室社・若御子社・鶏冠社・政所社・柏手社・溝上社・子安社等がある。
文明15年(1483)正月、大祝家と諏訪惣領家の内訌による争いで一時聖地が穢されたことはあったが、清地にかえし大祝の巨館として後世まで続いた。後、この居館は他に移ったが、祭儀は引続いて神原に於いて行われてきた。諏訪大社上社の祭政一致時代の古体の跡を示している最も由緒ある史跡である。』
(案内板より)
諏訪大社の始祖の有員には飛鳥時代の用明天皇の皇子という説と平安時代の桓武天皇の皇子という説があるそうです。
− 溝神社 −
『 祭神は高志奴奈河比賣命といわれ御射山へ出発する際にまず参詣された社であった。水眼の清流をたたえた「みそぎ池」の中にあり西方に「神の足跡石」があった。この社は武田支配時代には山浦の南大塩郷によって造営奉仕がされていた。』
− 御手祓道 −
『1ヶ年75回あった神事の内で最も大きい祭事である御頭祭(酉の祭)の儀式が最高潮になる頃、雅楽が奏でられる中を神への使者に選ばれた「おこうさま」が乗馬し、その行列が松明をともしトキの声をあげて神殿のまわりのこの道を三回逆にかけめぐった。内県小県の諏訪領内の郷村をまわって農作物の豊饒を祈る神まつりに出発する神使もこの道をまわり大祝即位の時もこの道をめぐっている。今も一部にこの道の形跡を残す。』
諏訪大社上社前宮所在地:長野県茅野市宮川2030