塩野神社(前山)

鹽野(しほの)神社

長野県上田市塩田平の独鈷山麓にある神社です。

出雲大社の分霊を独鈷山山頂付近の鷲岩に勧請したのが始まりといわれ、独鈷山に奥社があります。
境内を流れる川は独鈷山から湧き出した塩野川で、この水も信仰対象だそうです。

塩田平地方は雨が少ないため独鈷山は水源でもあり、独鈷山の山岳信仰から生まれた神社と言われています。

− 塩野神社 −
『 延喜式に載せられている信濃の名社。上田、小県地方のおける式内社五座の一で、奥社は塩野川の水源独鈷山にある。大宮または大明神とも称され、古来この地方の信仰の中心で、塩野北条氏、武田氏、真田氏等の統治者は常にこの神を厚く崇敬した。中でも永禄11年(1568)の武田信玄の祈願状や天正15年(1587)の真田昌幸(幸村の父)、の寄進状など有名なもので、何れも上田市の文化財に指定されている。かつては神宮寺も付属している大社であり、武田信玄は二十寛文の朱印状を奉納していたといわれる。戦前は県社であった。境内の森厳さは定評があり、また太鼓橋の構築、拝殿(勅使殿といっている)の楼閣造り、本殿の彫刻等見るべきものが多い。』
(案内板より)

境内の鳥居から独鈷山登山口の鳥居まで直線で200mあり、この直線は平安〜鎌倉時代に流鏑馬が行われた旧跡だそうです。
流鏑馬が行われた旧跡は全国でも珍しいそうです。

− 全国でも珍しい流鏑馬の旧跡 −
『 塩野神社の森の中の一の鳥居から、はるか西の方に見える二の鳥居までの直線の道が、有名な流鏑馬の旧跡です。二町(約200メートル)の距離ですが、800年程前(平安〜鎌倉時代)武士たちは、ここで馬を走らせて流鏑馬という行事を行い、神様に奉納しました。
右図のような支度をした武士たちが、走る馬上から、左手に並べてある三つの菱形の的を射落とすのです。的と的との間は五十メートル位しかありません。成功するのは余程の名人でした。この名人の一人に、手塚の太郎金刺光盛の一族で盛澄という人がいました。手塚氏はすぐ隣の手塚区の出身といわれ、鎌倉の八幡様の祭りなどに妙技を見せた人として有名ですが、きっとこの塩野神社で力を付けたものと思われます。尚、この辺一帯を「やぶさみ」と言い、馬の練習をした馬場は地名と共に残っています。
また、南方の中善寺の薬師様の台座には、流鏑馬の墨絵が画いてあるので有名です。流鏑馬のあさが、このようによく残っているのは、全国でも珍しいと言われています。』
(案内板より)

御神木です。

覆屋に囲まれ保護されていました。
塩野川にかかる太鼓橋。神橋です。
(写真は拝殿側から撮っています)
拝殿

祭神 須佐之男命 大己貴命 少彦名命

楼門形式の拝殿は現在のところ県内では諏訪大社とここが確認されるのみで建築史上貴重な物件だそうです。

− 塩野神社拝殿及び本殿 −
『 社殿によれば、塩野神社は塩野川の水源である独古山の鷲ヶ峰に祭ったのが始まりといわれる。歴史的には、古代の公文書である「三代実録」「延喜式」に記されている。戦国時代には武田信玄や真田昌幸・信之らが信仰を寄せ、それらの古文書や、六十年に一度の「甲子祭」で舞われる「前山三頭獅子」等、多くの文化財を伝えている。
拝殿は勅使殿ともいわれ、棟札により建築は江戸中期の寛保三年(1743)作者は上田市の名工、末野忠兵衛とわかる。楼門形式の拝殿は、現在のところ県内では諏訪大社と本件が確認されるのみで、建築史上貴重な物件である。
本殿は一間社流造で、建築は寛延三年(一七五○)作者は本殿と同じく末野忠兵衛である。各所に雲や天女・虎・牡丹・竜等の彫刻が施され、この時代の地方作としては彫刻が多く用いられた初期の作品であり、当時の様式を伝えている。』
(案内板より)

本殿に向かって左にある勅使殿。
後ろに小さな祠もありました。
本殿に向かって右側に神鎮殿。

塩野神社の所在地:長野県上田市前山1681