信濃国一宮 諏訪大社/上社前宮

諏訪大社の始まりの地

子安社

国道近くに鎮座していました。祭神は建御名方命の母・高志沼河姫命(奴奈河比賣命)です。
所政社

諏訪大社本宮では摂末社39社の中でトップに名前が書かれていますが、山の斜面に小さな祠があるだけで、道を挟んで反対側に祀られている子安社とは扱われ方が全く違いました。諏訪大社の事情を伺い知ることができるかも?

− 所政社(ところまつしゃ) −
『古書には「所末戸社」とも「政所社」とも書かれてあり非常に盛大な祭りが春秋の二季に行われたといわれているが江戸時代に至って全く廃れてしまった。かつては旧暦三月末日に稲の穂を積みその上に鹿皮を敷いて大祝の座とし假家をかまえて神事を行っており、大祝が定めで参詣する社十三ヶ所のうち第一とされてあるからこの社の重んぜられたことがわかる。古くは上伊那の藤沢郷によって社殿が造営されていた。』
(案内板より)

くねの後

中世の豪族邸宅には土塁が多く見られ、前宮の大祝の居住する神殿も土塁に囲まれていたそうです。
諏訪照雲頼重の供養塔

明治初期、「照雲」の銘が判読できる中世前期の五輪塔が出土したので、ここに保存されたそうです。
照運は上社大祝をつとめた三河入道頼重のことで、太平記にも登場しています。

− 諏訪照雲頼重の供養塔 −
『この地は、もと「大祝様御屋敷地」といわれた神殿に近く、明治初年に五輪塔及び多宝塔等の石造物残欠が多数出土し、付近住民によって私有地の一角に保存されてきた。当時は五輪塔火部に「照雲」との銘が判読できたという伝承があり、中世前期の形式をそなえた貴重な歴史的遺物である。
照雲とは上社大祝をつとめた三河入道頼重のことで「太平記」にも名をとどめ、建武2年(1335)7月14日に北條氏再興をはかってこの地に決起し、北條時行(高時の遺児亀寿丸)を擁立して「中先代の乱」を戦い鎌倉を占拠した信濃勢の総大将であった。しかし、足利勢の大軍に敗退し、8月19日、遂に勝長寿院大御堂にて壮絶な自害をし果てたと記録されている。近年これら石造物も風化損傷がひどくなり地元保存会が補修整備を行ったものである。』
(案内板より)

諏訪大社上社前宮所在地:長野県茅野市宮川2030