長谷山 本土寺

あじさい寺

小金町役場門柱

仁王門を入ったところにあった門柱で、小金町役場で使用していた門柱だそうです。

− 小金町役場門柱由来 −
『 小金町は江戸の中心より約32キロメートル、約八里、この間いくつかの渡しがあり、その1つに「矢切の渡し」もありました。昔から旧水戸街道を下る人はここが第一日目の宿場であったと言われて来ましたが、東葛郡史にもあるように「小金の若衆はよかし、襷一本で飯食える」等と云われ、大変宿場として栄えましたが、明治になり常磐線が出来て宿場の必要はなくなにり、急速にさびれて来て、遂に松戸市に合併されることになりましたが、江戸より仙台迄に至る間で寺の本山が二箇寺あったのは小金町丈です。1つは浄土宗で増上寺につぐ東漸寺と、日蓮宗では本門寺と同格であった本山本土寺がありました。
昭和29年(1954)小金町が松戸市に合併されましたが、小金町役場の門柱を頂いて長い間そのままになっていましたが、近来全国的に「ふるさと復興運動」が盛んになって、本土寺も日蓮聖人開宗750年(平成14年)記念事業の1つとして、その昔、四院六坊の1つであった実相院跡に実相閣結社(目の前の建物)を建立し、工業博士吉田桂二氏の設計により徳川中期の建築を模し(一部改築)建立された時、且つての小金町の記念として、この門柱が建てられたものであります。』
(案内板より)

門柱と石畳の先には実相閣が建っていました。

− 実相閣縁起 −
『 平成18年は、戦後60年となる年で、先代山田日永貫首に招かれて現60世河上順光がお手伝いに参ったのは今より55年前であります。明治以来神の国は亡びないと謂う日本国の考えは原爆投下と同時に消え去ったが、山河は残り、田畑は毎日作物を生産できたのであります。
当時戦争中より全く手入れの出来ない本土寺は爆撃こそ受けなかったが雨漏りがひどく廃寺寸前の状況であり、總代嶋根幸造氏と共に農村の檀家を廻って協力を頼んで歩きました。この田畑を残して呉れた先祖を祀る寺を勇気を振り起こして雨漏り丈でも止めようではないか、その五、六十軒の檀家の中心となったのが且つての四院六坊の仲の実相院の檀家二十四、五軒、他に小金、東平賀、栗ヶ沢、向小金、今谷、二ッ木、古間木等を入れ五十軒足らずでありましたが、勤労奉仕によりかわるがわる泥を共にこねて、屋根の雨漏りを止めることから始まって、やがて全檀家も参加して55年にわたる復興が始まったのであります。
先ず像師堂大改修、妙朗堂大改修、長廊下新築、本堂大改修、方丈、書院の改修、宝蔵修理、開山堂新築、五十塔新築、宝物館新築、仁王門その他三門の修理、茶室修理、開山堂新築等が行われ、また明治維新廃仏毀釈の際に削り取られた境内地三千坪を買い戻し、桜、菖蒲、紫陽花、紅葉等を植えて今日に至りました。この当初日本人が敗戦のショックで茫然自失していた頃に本土寺復興にかけた農村地区の檀家の情熱も、二世三世と変る子、孫子の人達の為、あの時期あの混乱の中で菩提寺復興という情熱にかけた先祖を忘れぬように、本尊両脇に実相院歴代と總檀方中、先祖代々の位牌を祀って実相閣結社としたものであります。
本土寺第六十世 河上順光』
(案内板より)

本土寺所在地:千葉県松戸市平賀63