− 松心山善光寺 −
『真言宗豊山派の寺院。堂森善光寺、あるいは出羽善光寺とも称される。宝暦13年、明治26年の両度の火災によって記録が消失し、由緒は定かではないが、善光寺阿弥陀堂の別当寺として、大同2年(807)の開基と伝えられる。その後、建久3年(1192)に長田将次の妹益王姫が中興したという。また、置賜郡の地頭長井時広の創建とも、長井氏三代時秀の創建ともいわれ、寺には長井時広夫妻の像と伝えられる坐像が残されている。
中世期には、等寺において大般若経の写経事業がなされ、現在その一部が山形市の山寺立石等に残っている。奥書には、出羽国長井之荘堂森今善光寺常住物、本聖仁光などの記載があり、延文2年(1357)に当寺の住僧、聖仁光が多くの僧の強力を得て写経したことが知られる。
阿弥陀堂は寛延3年(1750)に再建されたもので、善光寺如来尊と木造の阿弥陀如来立像が安置されていた。阿弥陀如来立像は後を振り返る珍しい姿の像で、見返り如来といわれる。長井時広夫妻坐像と共に山形県の文化財に指定されている。』
(案内板より)
− 前田慶次供養塔碑文 −
『前田慶次利貞は加賀藩主前田利家の甥、叔父利家に仕えて小田原攻めに参戦、後、己を知る天下唯一の武将として直江兼続を知り、その主、上杉景勝公に生涯を託した。慶長5年、最上討伐には直江と共に出陣、大いに戦い殿軍をつとめ完全撤退を果たして戦史に名を留めた。
後、この地、堂森に居を賜り、邸を「無苦庵」とよび悠々自適この地を愛し郷民と親しみ、慶長17年6月4日70歳の生涯を閉じた。慶次は天性豪放磊落奇行に富み、文武は勿論広く諸芸道に通じ、無苦庵記、道中日記、亀岡文殊奉献和歌がある。
前田邸址 慶次清水 月見平に 今も慶次は生きている。
松心山 光照院 善光寺 中興第三十五世 酒井清滋
上杉家家職 山田武雄選並書 』
堂森善光寺の所在地:山形県米沢市万世町堂森山下375