伊豆国一宮 三嶋大社

三島大明神

神鹿園。

宝物館に隣接した鹿園で、鹿がたくさんいました。売店でエサも売っていました。
三嶋大社の創建は不明とされていますが、鹿がいるということは、鹿がいる系の神社の一種ということになるのかな。
三嶋暦師の館。

明治16年まで三嶋暦という太陰太陽暦(旧暦)を製造、販売していたところです。

− 三嶋暦師の館 −
『 三嶋暦師の館は、日本でも数少ない暦師の一人、河合氏の家でした。この地は三嶋大社の領地でしたが、三嶋大社と関係の深い社家の一人河合氏の先祖が暦師として代々三嶋暦の印刷・販売を行ってきました。また古くは天文台もあったといわれており、徳川幕府が暦を編集するようになるまでは、河合家が独自に暦を計算し、編集・印刷・販売を行いました。現在の建物は、安政地震(1854年)によって前の建物が壊れた後に、当時の韮山代官であった江川太郎左衛門が、十里木(現裾野市)にあった関所跡の建物をここに移したものです。
三嶋暦の始まりは、鎌倉時代かそれ以前であろうと考えられますが、仮名文字で刷られた暦としては日本で最も古く、三嶋から発信され、伊豆はもとより関東を中心に広く販売されていました。』

鳥居をくぐってすぐの境内に源頼朝旗揚げの碑がありました。

− 源頼朝旗揚げの碑 −
『 治承四年八月十六日 源頼朝は北条時政を招き旗揚げの相談をし「先つ八牧判官兼隆を夜討ちにすへし急ぎ相計へ」時政「但し今夜は三島社の御神事にて、国中には弓矢とる事候はず」(源平盛衰記)との意見を入れ、十七日夜討と決定した。十七日籐九郎盛長を奉幣使として戦捷を祈請し(東鑑)旗揚げは成功したのである。二日後、すなわち八月十六日報賽のため神領寄進の下文を寄せた。現在この下文は宝物として社蔵されている。
三嶋大社宮司』

若山牧水の歌碑

のずゑなる 三島のまちのあげ花火
月夜のそらに 散りて消ゆなり
安達藤九郎盛長警護の跡

『 治承四年(一一八○)源頼朝が源家復興を祈願し百日間毎晩蛭島より三島大社に日参するに際し従者盛長が此の所で警護したと伝えられている。』

三島大社所在地:静岡県三島市大宮町二丁目1番5号