飛騨一宮 水無神社

みなし神社

岐阜県高山市に鎮座する飛騨国一宮。御神体は位山です。

飛騨一ノ宮駅の南東、国道41号線の一之宮の信号の東に鎮座しています。

創建の年代不詳。鎌倉時代には「水無大菩薩」と称し社僧が奉仕し、近世には「水無大明神」「水無八幡宮」と称したそうです。
戦国時代の戦乱で祭祀が途絶え付近の寺が管理していましたが、元禄年間から吉田神道系の神職が奉仕。1773年の大原騒動の時は水無神社が農民の決起集会の場所となり悲劇が起こりました。

明治時代、島崎藤村の父が宮司を務めていたこともあるそうです。

また、第二次世界大戦のときは熱田神宮の天叢雲剣(草薙剣)が避難していたことでも知られています。
神門。奥に拝殿・本殿があります。

祭神は水無神(御歳神)ですが、水無神社の御神体は位山です。
白山神社

世界遺産の白川村の長瀬(通称秋町)と福島の両集落は昭和32年(1957年)御母衣電源開発が始まりダム湖底に沈むこととなり氏子も離散し、それぞれの集落にあった氏神白山神社を飛騨国一宮の水無神社に遷座、両神社を合祀し白川神社として創建した、とありました。
神馬(白馬と黒馬)

水無神社には白馬と黒馬の神馬が一体づつ安置されていて、この神馬には稲喰神馬伝説があります。

− 稲喰神馬伝説 −
江戸時代初期、村の作物が夜になると黒馬に食い荒らされ、水無神社の神馬が犯人ではないかと村人が噂したので神官が名工を呼んで黒馬の両目をくり貫くと田畑が荒らされなくなったそうです。黒馬は眼が抜かれたようになっていますが、白馬も元は黒馬で数回塗り替えられているとのことです。

絵馬殿。旧拝殿だそうです。
絵馬殿(拝殿)の由来
一、慶長十二年(1607年) 飛騨国の国守となった高山城主金森長近の造営 (当社棟札 一宮拝殿造営定書 飛州志)
一、安永七年(1778年) 百姓一揆が安永二年に起り大原騒動と称し当神社の社家も農民に加担、連座し改廃され信州より迎えた神主梶原家熊は両部神道を改め、唯一神道とし従来の仏像、仏具はもとより社殿の多くを取壊し改めて造営するにあたりこの社殿のみ取壊しを免れた。
一、明治三年(1870年) 高山県知事宮原積は入母屋造りの従来の社殿を明神造りに立替えた、その時この建物は建替用として取壊したのを氏子は自分達の大切な拝殿として保管した。
一、明治十二年(1879年) 氏子は保管中の拝殿再興を願出、広く浄財を求め元の位置に復元した。
一、昭和二十九年(1954年) 十年代国の管理の下昭和の大造営がはじまったが、終戦で国の管理から放れ、現在地に移築した。
一、昭和五十三年(1978年) 宮村重要文化財指定、屋根銅板葺替(従来柿葺)

水無神社の所在地:岐阜県高山市一之宮町石原5323