帰雲城跡(かえりくもじょう)

地震で埋没した伝説の城

高山市荘川町から白川郷に向かって156号線を北上すると、「帰雲城埋没地」という、この看板があります。
道を入るとすぐにこの石碑があり、この奥には戦国時代に内ヶ島氏の帰雲城があったと言われています。
内ヶ島氏は120年続いた戦国大名でしたが、地震は夜に発生し、内ヶ島氏はその時宴会中で、数百人の一族と城下の住民全て山の土砂崩れで一夜にして滅んだそうです。

いくつか当時の記録が残っていて、他国へ行っていた4人だけが生き残り、泣く泣く帰って行ったとあります。

『 帰雲城は、寛正の初め(1460年頃)内島上野介為氏によって築かれた城である。四代氏理の時代、天正13年(1585年)旧11月29日、東海・北陸・近畿に及ぶ広範の地域を襲った巨大地震によって帰雲山に大崩壊が起こり、帰雲城とその城下集落が一瞬にして埋没したと伝えられている。埋没前の、帰雲城の位置は確認されていないが、地勢・堆積土砂等からしてこの周辺地域と推測される。
平成11年6月 白川村』

石碑の右側に観音像も建立されていました。

後ろの崩壊した山が地震で崩壊した部分だと推測されているようです。
拡大画像です。帰雲城はこの山の麓にあったのではないかと言われています。

帰雲城には金山があったので埋蔵金伝説もあります。
石碑の反対側には「帰り雲神社」が建立されていました。
正一位稲荷大神国常尊を祀ったとありますが、お稲荷様はやはり国常立尊なのでしょうか。

− 内ヶ島 −
『 城主兵庫守、氏理一族が地震の災害にて埋没、御霊祭もなく数百年を過ぎし今日、正一位稲荷大神国常尊を守護神と祀り、帰り雲神社に奉納なした。石に城主の顔が現らわれ、帰り雲の方を見守りて居り、社前の道路上より拝して下さい。』
(と、書いてあります。)

霊夢を感じ、有志が地下の霊を弔うため、神社を建立したんだそうです。

− 帰り雲神社由来 −
『 流れる雲は常にこの山頂に至りもと来た空に帰るという。対岸の帰雲山は、天正13年(1585年)11月29日夜、大地震にて崩壊、時の帰雲城主内ヶ島兵庫頭氏理、主従一族(数百人)と山麓の城下町は一瞬にして、このり地に深く埋没したと伝えられている。祠は、霊夢を感じた平瀬の田口勇一氏と保木脇部落の有志が、地下の霊を弔うため建立された。』
(石碑より)

帰雲城跡所在地:岐阜県大野郡白川村保木脇(ほきわき)